2005年度2回例会:1210日(土)

 受付開始  13:00  ●参加費(資料代を含む)500円

                         非会員の来聴を歓迎します。

 大会報告  13:3016:30

会場:成城大学8号館831教室


成城大学へのアクセス:小田急線成城学園前駅 徒歩5分
     (地図などはhttp://www.seijo.ac.jp/map/ index.htmlをご参照ください)
   *なお小田急線成城学園前駅は快速急行は通過しますのでご注意ください

また成城大学から学会開催補助が受けられる予定ですので、
当日は懇親会を予定しております。当日の懇親会:予定20人

発表

Ⅰ 報告者 近藤浩之(北海道大学大学院文学研究科助教授)

司会  末永高康

題目:簡帛『五行』による『孟子』萬章下篇の再解釈の可能性

 要旨:
 『孟子』の最後は、次のような文章で締めくくられている。――「孟子曰、由
堯舜至於湯、五百有餘歳。若禹・皋陶則見而知之、若湯則聞而知之。……由孔子
而來至於今、百有餘歳。去聖人之世、若此其未遠也、近聖人之居、若此其甚也。
然而無有乎爾、則亦無有乎爾。」(盡心下篇)
 その所謂「見而知之」「聞而知之」ということについて、馬王堆漢墓帛書『五
行』及び郭店楚墓竹簡『五行』(以下、簡帛『五行』と略稱)には、「見而知之、
智也。聞而知之、聖也。」などとあり、「智」と「聖」とを明確に区別するよう
な文章が綴られている。簡帛『五行』は戦国中期から漢初にかけてのもので、そ
の内容から考えると、もしかすると孟子晩年の作あるいはその弟子たちの作であ
るかもしれない。いずれにしても、(同じ時代に生きて)「見てこれを知る」こ
とが「智」、(遙か後の時代に生きて)「聞いてこれを知る」ことが「聖」であ
る、と考えられていたことがはっきりした今、我々は、『孟子』萬章下篇に見え
る次のような言葉の真意をようやく汲み取ることができるようになったのかもし
れない。――「智、譬則巧也。聖、譬則力也。由射於百歩之外也。其至、爾力也、
其中、非爾力也。
 そこではただ「其至、爾力也、其中、非爾力也。」と云うだけで、「其至、爾
力也、其中、爾巧也。」とは云っていないのに、従来の多くの注釋では、この箇
所を孔子の巧力兼備すなわち智聖兼備を説明したものであると解釈している。し
かし、簡帛『五行』によって、その解釈をもう一度検討し直すべき可能性が出て
きた。今回の発表は、その一つの試みである。

Ⅱ 報告者 劉楽賢中国社会科学院歴史研究所研究員

司会 工藤元男

通訳 廣瀬薫雄

題目:從出土文獻看楚秦選擇術的異同及影響——兼釋楚系選擇術中的“危”字

要旨:

由於太史公《日者列傳》原文的亡佚,早期選擇術的概貌及齊、楚、秦、趙各地選擇術的異同一直無從探究,也無人探究。近年隨著大量戰國秦漢簡帛文獻的相繼出土,討論這些問題的基本條件業已具備。本文嘗試利用已發表的出土資料,對楚、秦選擇術的異同及歷史影響作了初步討論,所得結論可以大致概括爲下面幾點:

1出土數術文獻的發現,在一定程度上彌補了因太史公《日者列傳》亡佚而造成的知識缺憾。目前雖然還沒有條件全面考察齊、楚、秦、趙各地選擇術的異同,但已具備了比較楚、秦兩地選擇術異同的基本資料。

2通過對楚、秦兩地選擇文獻的內容進行比較,發現楚、秦兩地使用的選擇方法存在較大差異,司馬遷“齊、楚、秦、趙爲日者,各有俗所用”之說並非虛言。但是,若從選擇術的原理考察,楚、秦兩系選擇術並非毫不相干,而是出自同源。

3從歷史的角度考察,後世流行的一些重要選擇方法如“建除”、“叢辰”、“咸池”、“十二禽”之類,都可能出自秦系。因此,若就對後世選擇術的影響而言,顯然是秦系遠遠超過了楚系。

4從楚、秦選擇術的對應和文例比勘等角度看,楚系選擇術中原來被釋作“坐”的那個字似以改釋為更爲合適。

 

Ⅲ 報告者 石黒ひさ子(明治大学非常勤講師)

司会 平勢隆郎

題目:楚都郢と江陵紀南城

 要旨:

 春秋・戦国時代の楚国の都である郢の所在は議論となってきた。近年発見された簡牘により、郢都を継承すると考えられる漢南郡江陵県が現在の湖北省荊州市に存在したことはほぼ確実となった。従って楚都郢も荊州市北にある紀南城遺跡とするのが有力である。しかし紀南城城壁は春秋晩期に作られたものといい、郢都と紀南城の関係にはまだ討論すべき部分が多い。紀南城の発掘調査では都市西南部に宮殿地区があり、その戦国時期の宮殿の下に春秋時期の宮殿遺跡があるともいう。都市内の構成について先秦都市の研究では曲阜魯国故城と紀南城遺跡の類似が指摘されている。魯国故城は都市の一角を小城壁によって宮城区とし、河道を利用して区割りされた紀南城の宮殿地区とよく似た配置である。

また本報告では『春秋左氏伝』における郢都の評価も検討する。『左伝』は郢都の所在でも史料とされるが、『左伝』がどのように郢を描いているかという点による考察は少ない。だが郢にかかわる部分では『左伝』と『公羊伝』の『春秋』経文も異なることから、何らかの意図は存在する。これを明らかにし、魯国故城との類似という点もふまえて郢と紀南城遺跡について新たな視点を探していきたい。